科学者たちの自由な楽園

本八幡の図書館から「科学者たちの自由な楽園」という本を借りてきて読んでました.
この本は「科学者の楽園」と呼ばれた理化学研究所の誕生から第2次世界大戦後の理研コンツェルン解体までを描いたものです.
その時代の理研についてはこちらも参照してください.

大河内正敏高峰譲吉,池田菊苗,長岡半太郎鈴木梅太郎,本多光太郎,寺田寅彦中谷宇吉郎,真島利行,仁科芳雄朝永振一郎湯川秀樹,中原和郎,武見太郎,福井謙一など明治から昭和にかけて活躍した有名な科学者が登場し,その時代の科学史を学ぶ上でも有益です.

1913年6月23日,高峰譲吉が国民科学研究所の必要性を提唱したのを受け,1915年に理化学研究所創立が決定され,1917年9月,

理化学研究所は産業の発達を図る為,純正科学たる物理学及び化学の研究を為し,また同時にその応用方面での研究をも為すものである.工業といわず農業といわず,理化学に基礎を措かない総ての産業は,到底堅実なる発展を遂ぐることができない.殊に人口の稠密な,工業原料その他物質の尠い我が国においては,学問の力によって産業の発達を図り,国運の発展を期する他はない.当所の目的とするところは,この重大なる使命を果さんとするにある.

という目的を掲げて発足しました.

理研ができた当初から以下のような感じで研究精神とその力を研究員の採用条件にしなければならないという考えだったみたいで,桜井錠二は

余が研究所に対し特に希望したきは研究員の詮衡宜しきを得ること是れなり.言ふまでもなく事業の成否は人を得ると得ざるとに因ることなれば,所謂情実なるものの如きは絶対的に之を排除し,一に人物と研究能力とを標準として採否の決せられんことを切望す.

人爵を悦ぶ如き人は研究所には不要なるべし.研究所が欲する所の人は自己の努力と能力とに依りて得たる名誉を真の名誉とする人なるべければ,右の如き心配は全く無用に属すべし.

などと言っています.
また,本多光太郎は実力一本槍だったらしく,

教授,助教授でもみんな勉強せんといかんわなア.それでわしも考えたんだが,すべて助教授は5カ年たったら一応辞表を出してもらうことにする.助手は3年で出してもらう.そこでその人の実力や研究業績を考査して,よい人には辞表を返し,ダメな人にはその辞表によって依頼退職ということにする

と言って助教授や助手を慌てさせたらしいです.
これを大学でやればどれだけの教官が焦ることか… でも教官を篩にかけることで教授職にあぐらをかいてるだけの人が居なくなって,実力を持つ人しか生き残れないから良いのかも.その点ではいいアイデアです.

このような実力主義と主任研究員制度を導入し,研究室毎に研究費を割り当て,主任研究員に予算や人事を委ねることで自由に研究をさせるという,大河内正敏のアイデアが奏功し,理研を「科学者の楽園」にしていったのかもしれません.


理研の影響か,当時新設された東北帝大が 傍系の人達に門戸を開いたり,帝大として初めて女子学生をとったりと当時としては自由過ぎて素晴らしいです.
当時東北帝大に入った日本初の女子学生の一人に日本最初の女性化学者となった黒田チカや日本初の女性農学博士となった丹下ウメなどがいます.

あと,寺田寅彦は今ならイグノーベル賞をもらいそうな研究ばっかりやってるのが素敵ですね…

研究所とは,全世界からの学者が一人の学者のまわりに集まり,その一人が全員をできるだけ進歩するよう励ますところであった.研究所はもっとも自由な研究と討論が行なわれるところであり,同時にその中には冗談と楽しみがなければならず,けっして象牙の塔であってはならなかった.

というボーアの考えを日本に持ち帰ったのが仁科芳雄です.
研究室のメンバー全員にあだ名を付けたり,「凡児」と呼ばれていた坂田昌一を見送りに行く時にマンガの主人公「只野凡児」になぞらえてゴム風船を餞別に送ったりする研究室のメンバーのノリが素晴らしいです.
そして戦前,原子核物理学を研究し,戦時中にニ号研究で軍部から原爆開発を要請された仁科博士曰く,

科学はこれを善用すれば人類の繁栄をもたらすとともに,これを悪用すれば恐るべき害を及ぼすものなのである.

これは科学者たる者肝に銘じるべき言葉です.

この本は科学史に興味のある人や理系の人は読むべきですね.
あと,科学教養を深めるのにも良いです.


そして最後に,現・理研理事長の野依さんからの3つの質問

  1. 理科好きになる秘密は,どこにあると思いますか?
  2. 一番必要な勉強とは,何だと思いますか?
  3. 科学は何の役に立つのでしょう?